(A幼稚園 園だより掲載コラムの転載です)
最近読んだ本の中で、山内朋樹 著『庭のかたちが生まれるとき』(フィルムアート社)が抜群におもしろかったです。山内さんと面識はありませんが、調べたところによると教育系大学で教員をされており、庭師でもあるというユニークな経歴をおもちの方のようです。本書では、京都にある補陀洛山観音寺の庭が、庭師の手によってどのようにつくられていくかを追ったフィールドワーク(現場での調査研究)がまとめられています。
研究というと、一般的には理科的な「実験」をするというイメージが強いかもしれませんが、ある特定の地域・文化・営みなどを丁寧に記述・分析するという研究分野もあります(有名な研究には、暴走族の文化を追ったものや、ジャズピアノの習熟過程を追ったものなんかがあります)。本書は「庭」という皆が知っているけれども作られるプロセスはよく分からないという対象にアプローチしたという点において、たいへん興味深いものです。
私がおもしろいと思うのは、「庭」をテーマにした本書を読んでいると、おぼろげながら「保育」のことが浮かんでくるところです。まったく違ったものであるはずの「庭」の分析から、「保育」にとって大事なことに気付かされると言いますか。(こんな風に読むのは私だけかもしれませんが…)
たとえば、山内さんは「庭」のことを、「庭とは持続的な手入れに依存する仮設的な配置や程度のことだ」と言います。木々はそれぞれ自由に育ち、風や雨によって、また誰かがそこを歩くたびに、庭は偶発的にかたちを変えます。そうした中では、カンペキな庭をつくって固定しておくことはできず、確かに「持続的な手入れ」が必要で、すべては「仮設的な配置」になるということになります。それが、「庭」のおもしろさなのでしょう。
上の表現に照らして言うと、子どもたちは日々の生活の中で、決められた道筋どおりではなくそれぞれが自由に育っていきます。また、意図しない出来事や、先生や友だちなど他者とのかかわりによって、いくつもの成長のターニングポイントを迎えることもあるでしょう。だとすると、保育では決められたカリキュラムをそのとおり遂行するだけでなく、「持続的な手入れ」をしながら柔軟に展開をしていくことが、何よりも大事だろうと思えてきます。「庭」のように、『保育とは持続的な手入れに依存する仮設的な配置や程度のことだ』と言えるのでは、と思います。
山内さんは、庭師は「いまだはっきりしない物のありようを「見る」のみならず「診る」」のだ、とも言っています。庭の手入れをするにしても、ただ漫然と「見る」のではなく、「診る」。そこで木々や石や砂の配置を考えていく。「保育」においても、子どもを漫然と「見る」のではなく、それぞれに寄り添って「診る」ことをとおして、「持続的な手入れ」=子どもへのかかわり・支援の仕方を探っていくことが重要なはずです。
先日の生活展に際して配られた『ジャーナル』では、まさにこの「持続的な手入れ」のプロセスが記述されていたのだと思います。「診た」こととして日々の様子 “Daily Life”と、「手入れ」のタイミング “Tuning Point” が記述されている、と読めます。毎年違った遊びが展開されるA幼稚園の保育は、偶発性と表現をともにする「庭」のようなものであり、それは職人のような保育者による「持続的な手入れ」によって成り立っている。こういった解釈も可能なのでは、ということを思いました。