千葉大学教育学部附属中学校主催、令和6年度 教育実践交流会(道徳教育)に指導講評として参加した。私の担当は、中2「寛容」に関する授業に対してのコメントであった。研究テーマ(道徳科における個別最適な学び)にひきつけながら、授業を見て思ったことを述べさせていただいた。道徳教育を専門どまんなかにしている訳ではないので、コメントが変化球のようになっていないだろか(というか、なっているだろう)といつも申し訳ない気持ちになる。今回はどうだっただろうか。ぎりぎりストライクゾーンに入っていただろうか。
それはそれとして。
コメントの最後に、提案授業の趣旨からそれるとは思ったが、私がずっともやもやと考えていることを付け加えてみた。なんとなく、今がタイミングかと思ったのだ。それは、「教材の登場人物が、この授業を見ていたらどう思うか?」ということである。今回の授業でもそうだったが、道徳科の多くの授業では、教材に登場するAさんについて「Aさんはどうすべきか?」と問うようなことがある。そう問いかけることで、子どもたちの思考を促したり、議論の対立軸をつくったりすることが目指される。よくある、一般的な問いかけ方であろう。
今回の提案授業で使われた教材は、家庭の難しい事情があり放課後の作業に残れないAさんがそのことを皆に言えず、事情を知らない班長(主人公)らから厳しい目で見られてしまうという話であった。授業では、「Aさんは事情を話すべきか?」ということが発問の1つとされていた。上に書いたように、ありうる発問である。子どもたちは様々な思いを語っていた。「授業」としてうまくいっており、素朴には何の問題もないと言える。
しかし、仮にそんな難しい状況にあるAさんが、「あなたがどうすべきか?」と第三者に言われている場に居合わせたら、どう思うだろうか? Aさんからは、こんな手紙が届いている(もちろん創作)ーー「家族の世話をしている自分に対して「事情を説明すべきか」なんて議論されるのは、余計なお世話という感じです。自分は精一杯生活しています。大変なこともあります。まったく知らない人から、どう「すべき」なんて言われる筋合いはありません。私の大変さが、みなさんには分かるのですか?」ーーたとえば、こんなことを思わせてしまう可能性はあるのではないだろうか。はたして、架空の人物とはいえ、誰かにそんなことを思わせる(可能性のある)議論は、道徳的なのだろうか???
教材だから、授業だから、よい。のかもしれない。しかし、こうした道徳教育の積み重ねが、人を(悪い意味での)「他者」として扱うことを学ばせてはいないだろうか。自分も、いじめや人権などセンシティブなテーマの教材をつくったり、そこで「Aさんはどうすべきか?」型の発問を提案したりすることもあるため、常にこれでいいのだろうかと悩んでいる。道徳教育は、人を「他者」として議論すること、鍵穴から覗くような姿勢を教えるものなのだろうか。
気にしすぎだろうか。みなさんは、どう思われますか?