ゲームのやりすぎは病気か? 生活に深刻な問題をおよぼすほどゲームにハマってしまう状態が、「ゲーム障害」(Gaming Disorder、ゲーミング障害の表記も有)という名で疾病の1つとして位置づけられた。世界保健機関(WHO)による認定であり、つまりは「ゲーム障害」という言葉が世界共通の言語になっていくということである。少し前に発表があり、ネットにもニュースがころがっている。中には、認定するにはエビデンスが不十分ではという意見もあるようだが。
http://www.who.int/health-topics/international-classification-of-diseases
https://wired.jp/2018/06/30/gaming-disorder-illness/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31936170Z10C18A6000000/


自分なりに何ができるのか考えなければと思う。とりあえず、帰りの電車で周囲の人のスマホを「ちらっ」と見る(ちらっ、とね)。ゲームをやっている。高校生も、おじさんもおばさんもやっている。次の日の朝も見てみる。ゲームをやっている。学内を見渡す。あちこちの休憩スペースで、ゲームをやっている。時折音が漏れている(シャカシャカとかはではなく、意図的に音を出している)。音も含めゲームが日常に、空間に、生活に、染み入ってきている……という言葉が浮かぶ。もちろん、LINEやニュースアプリのようなものを見ている人も多々いるのだが、もし私の観測が有意なものであれば笑、「スマホ=LINE、SNSというイメージ」しか持っていない人は、そのイメージを転覆させなければならないだろう。それほど、今の私たちの生活には、ゲームが在る。


情報モラル教育の中心は、やはりLINEやSNS、新しくて最近の動画サイト事情といった所であろう。だが、もしかしたらすでに、LINEに関するリテラシー教育などはどんなに教材に工夫を凝らしたとしても、効果があるとかないとかそういう次元とは異なる次元において、子どもたちからしたら「もう分かってるよー」という内容になってしまっているかもしれない(挙手して発表することが望ましいと分かっているけど、自分はやらない/やれない、とか。その場合、「挙手した方がよいと思いますか?」と問われたなら、多くの子が「はい」というだろう)。早すぎるクラシック。LINEをどう読むか、どう送るかといったことはもはや身体に溶け込んだものであり、だとすればLINE的コミュニケーションは、話す聞くの文脈として国語科で扱われる……という未来もあるだろうか。というのは半分冗談として、情報モラル教育とか、広く言えば学校で用いられる教材とか話題とかいういうものが、もう少しゲームという空気を下敷きに考えられても良いのでは、ということを思う。SNS等でのトラブルが分かりやすく、現前的な問題かもしれないのだが。ゲームを見落とすことで、何か大事なものも見落としてしまうかもしれない。(某小学校での講師時代、互いにうまくコミュニケーションとれなかった子がいて。ふいにゲームの話題が出てから関係性が一変したことを思い出す)


ただし気をつけたいのは「ゲームとは何か?」と正しく認識することだ。え、今更何を言う? と思われたかもしれないが、これはケッコウ重要な点だと思う。批評誌『ゲンロン8』の特集は「ゲームの時代」。さらにその冒頭に識者らによる対談記事があり、タイトルは「メディアミックスからパチンコへ」。90年代頃のゲーム、とりわけJRPGは「出版の想像力」により広まってきたという。「出版の想像力」によって生み出される関連アニメ、マンガ、キャラクター……ゲームというコンテンツのみを楽しむのではなく、関連する物語を消費することを前提にゲームはつくられてきたということだ。私たちは物語に魅せられてきたのである。一方、最近のスマホで遊ぶソーシャルゲームのようなものは、パチンコ的だとされている。ギャンブル的要素が強いということだ。むろん物語的、メディアミックス的要素よりも。また、ソシャゲにおいて一番ゲームをしているのは、実は制作者側ではないかという論点も出されており大変興味深い(確率を調整し利益を上げたりより楽しんでもらったりというプレイ)。一口にゲームと言っても、メディアミックス的ゲームと、パチンコ的ゲームでは、その特徴も、受容のされ方も、依存の仕方も、ゲーミフィケーションのあり方も、かなり異なってくるであろう。ファミコン世代って40代〜50代くらいだろうか。その方々が昔のイメージでゲームを語ると、おかしなことになってしまうかもしれない。私も、教育方法の発展事例として、ゲーミフィケーションについて学生に教えることがあるのだが、その際に教材としてファミコンのマリオやドラクエなどをプレイしながら教えており、そこで説明されるゲームなるものの特徴が、どうも学生にすっと入っていかないような印象を感じていた。リアクションペーパーには必ずソシャゲの話題が記されている。「ゲームの教育利用」という時、私の背後にはメディアミックス・ゲームがあり、彼彼女らの手元にはパチンコ・ゲームがある。これでは、どこか根本的なところで噛み合わないはずだ。ソシャゲーミフィケーション。


私は15年ほど前から、「ゲームとの付き合い方を考える」ことをテーマにした授業・教材を開発してきている。しかし、過去につくった教材は、旧来的なゲームを描いたものでしかなかった。そこで2017年には、オンラインゲームにハマってしまう小学生を描いたアニメ教材について開発、発表した。「ゲーム障害」の話が出てきたことで、こうした現代的なゲーム像を描いた教材が注目され、色々な人に開発してほしいし、自分でもまた新たに開発していきたいと思う。この教材も万能なものではない。場合によっては批判的に乗り越えられ、よりよい教材が開発されていったら嬉しい。ネットの時代である。教材はたくさんあって、選べるとよい。また、こういう時(新たな問題に対して、みんなでいろんなアイデア、教材を提案し合うような時)は、新しい教材づくり論、教材像が生まれるチャンスなのかもしれない、とも思う。
https://ace-npo.org/wp/archives/project/sie
阿部学・竹内正樹・古林智美・福永憲一(2017)「ゲーム機でのネット接続を題材とした情報モラル授業の開発と評価―アニメーション教材の活用と話し合いを中心としたプログラム―」CIEC研究会報告集、Vol.8、pp.3-10
https://www.slideshare.net/abemanabu/ss-73591398


もちろん「ゲーム=悪」として遠ざけるのではなく、空気のように存在する、生活に染み入っている、自分の手のひら数センチの所に現在するゲームというコンテンツについて、ただしく理解していきたい(してほしい)。そのためにも、問題も魅力も何でも、積極的に明るみに出し、みんなで話題にしていくことが大事だと考える。コンテンツ産業としてでもいいだろう、依存の問題についてでもいいだろう、メディア論としてでも、日本文化論としてでも。何せあまりに馴染んだ、空気のようなものである。食事と言ってもいいかもしれない。何やら白米は身体にワルイらしいが、でもそれを食べるかどうかは自由である。「自分は食べない!」とか「ホントにワルイの? 確かめようよ」とか「どんなに悪くても自分は食べるよ」とか「でも旦那にはほどほどにしてほしいなあ」とかとか。


『ゲンロン8』にて、ゲーム研究に熱心なのは80年代以前の生まれの人たちで、今のソシャゲに親しんだ人たちが将来ゲーム研究をしたいと思うかは??? という話題も提出されていた。研究界では80年代生まれは若手の部類であり、ゲーム研究というものを私個人は若くてきらきらしたものだと捉えてきたように振り返るのだが、もしかしたら今の私たちの営みって、すぐに古典的ゲーム教育利用研究として忘れされれてしまうのだろうか! しかしながら、パチンコ型授業なるものを積極的に生み出していきたいかというと、どうなんだろうか……。早すぎるクラシックである。