知り合い小学校の先生から相談をうけ、曲をつくった。何年ぶりだろうか。バンドをがんばったり、修論が中学生との歌づくりだったりと、音楽が自分の人生で大事なものであったことは間違いないのだけど、今はその中心からはずいぶん離れてしまったように思う。そんな訳で不安もあったのだけど、何はともあれ曲をつくった。

依頼は4年生の担任からのものであり、「6年生を送る会」の中で4年生からオリジナルの歌をプレゼントしたいというもの。計画についてあれこれ話し合い、大まかに言うと私が曲をつくり、それに子どもたちが詞をのせることとなった。とりあえず悩みながらも曲をつくり、お渡しした。

そして作詞、子どもたちの出番である。実際の作詞の作業は代表メンバー数名で行うことになったのだが(他の子には「会」における他の役割があるよう)、「これは「4年生」から送る歌であり、全員の思いを少なからず反映させたものにしたい」といった願いが先生にはあった。依頼を受ける側としてはその思いに応えたいのだが、この学年は100名以上の児童がおり、「全員の思い」となるとちょっと工夫が必要になる。

そこで、いま大注目の生成AI(ChatGPT)のちからを借りながら作詞をするという活動をやってみた。先に子どもたちは、他のカリキュラムとの関連で6年生に思い出や抱負などについて取材をしている。そこから、歌詞のアイデアや盛り込みたい言葉などを出してもらう。全員から出してもらうとかなりの量の情報となる。それらを代表メンバーがまとめる。このプロセスなら、「全員の思い」がある程度は反映されそうだ。しかし、「まとめる」という作業はそう簡単ではない。まして、今回は100人×◯個の情報である。そこで「全員の思いをまとめつつ歌詞のアイデアを出してもらう」という人知をこえた作業をChatGPTにやってもらうことにする。さて、どうなるか。残念ながら毎回の授業に通うことはできなかったのだが、この日は私もお邪魔し、子どもたちと相談しながらChatGPTに次のようにお尋ねしてみた。

「あなたはこれから作詞家として相談に乗ってください。小学校を卒業する6年生に送る歌を作っています。歌詞に反映したい言葉やイメージを、以下のとおり考えています。しかし、数が多いため、歌詞としてまとめるのが難しいです。これらの言葉やイメージをふまえつつ、歌詞の案をつくってもらえませんか。」(このあとに、収集した情報を大量になげる)

ChatGPTは、ものの数秒で歌詞のアイデアを出してくれる。子どもたちはその速さに驚き、盛り上がる。そして、次の瞬間にはアイデアを熱心に見つめ出す。なんかすごいことが起こっている、自分たちがやりたかったことはこういうことなのかも、自分たちが求めている何かがここにある気がする……といったところだろうか。また、ChatGPTはこちらのお尋ねに応じて嫌な顔ひとつせずアイデアを出してくれる。相談のハードルは低い。A組の情報だけだとどんな感じか、固有名詞を言い換えてもらえないか、もっと物語風にしてもらえないか等々、色々と尋ねてみる。複数の案を見比べ、いいなと思う言葉や部分に丸をつけていく。おもしろい。そんなことをしているうちに、1コマの授業は(私の感覚では)あっという間に終わってしまった。

もとより代表メンバーは意欲的に作詞をしようと思っていて、当日も自分なりの試案を用意してはいた。それでも4年生である。作詞や、「みんなの思い」をまとめることに難しさも感じていたようだ。それが――その後の先生の話を私なりに言語化するに――この日この時をさかいに目指すべき方向のレールが目の前にしかれ、そしてそこを走り出すためのスイッチもカチッと入れられたかのようだというのである。当初は活動中に言葉が出ず止まってしまう場面も多々あったそうなのだが、この日からは子どもたちから(あるいは子どもたち同士で)「この言葉どう?」「直接的すぎない?」「じゃあこれは?」と提案や相談がなされたり、ChatGPTのアイデアを参照し問題をのりこえようとしたりするようになったらしい。扱う語彙もかなり増えたようだ。この日の出来事は子どもたちにとってボルダリングでいうところのホールドになったのだろう、そこにがっちり手がかかったのだろう、と考察することはできよう。なお、実はこの活動は今まさに進行中であるのだが、途中案を見ると、良い意味で着実に「詞っぽい」ものができあがってきているように思われる。

さて。もし、ChatGPT登場以前にこの依頼を受けていたら、おそらく私は「詞の書き方」のような授業をやっていただろう。具体的に何をどうレクチャーするかは分からないが、何かしらの創作法、何かしらのコツのようなものを教授しようとしたと思う(実は、今回もそういうことをすべきかと一瞬あたまをよぎったのだが。そして卒論実践でそういうことをやっていたとまさに今思い出した。中島みゆきを例にした記憶がある)。それでコツを掴んでくれる子がいた可能性ももちろんある。しかしながらこれまでの実践・研究者人生を短いながらも振り返れば、きっと多くの子は「わかったような気はするけど、実際できない、できているかわからない」ということになるのではないかと思えてしまうのだ(これはこれで闇深い話だ)。

他方で、今回ゲストティーチャー的な立場であった私は、何も教えていない。ChatGPTに聞いてみよう、と提案してみただけだ。また、実はChatGPTさんもコツのようなものは何ら教えてくれていない(コツを聞いてないということもあるのだが)。今回ChatGPTは、大量の案、大量の詞、大量の言葉を見せてくれただけだ。すると子どもたちは「勝手に」それらを読み、その中から良い言葉、目指したい表現、自分にとっての美、その共通点のようなものを感じとり、吸収していった(言語ゲームを連想させられる)。そして、作詞能力は着実に向上。そういう意味での「教えないけど、教える」というなんだか近年の学校教育が理想とするような教師ムーブをChatGPTはかましてくれていた、ということなのかもしれない。さらに連想をすれば、この授業を国語科で実施するとしたら、やはり詞の技法みたいなものを教えたくなるし、教えなければならないのかもしれない。しかし、はたしてそのことに意味があるのだろうか? 教育、あるいは創造的作業に必要なのは、授業者による教授行為ではなく、大量の情報と、飽きもせずひたすらに寄り添ってくれる他者なのかもしれない。

思い返せば、前述の修論実践では、子どもたち一人一人の思いを歌として真に昇華することをねらいとして、ミュージシャンがかなり密に子どもに寄り添い、対話するということを試みていた。確実に意義はあったはずだが、コスパは悪く、選択授業を受講する数名程度に応じるのが限界だったとも振り返られる。そして今回の実践。対話する相手の様子はかなり変わってしまったのかもしれないけれど、実はその構造は変わっていないのでは……そんなことも思うのである。

続く。

補1:この実践は、依頼主の先生の構想を基盤としながら、私のアイデアがてきとうに編み込まれながら進んでいる。カリキュラム開発の主体がわかりづらい書きぶりになっていると思うが、そういう理由による。

補2:この実践を「生成AIについて学ぶ」ものとして行うならば、もっと整理されたものとして設計・デザインできたと思う。しかし、本実践の着想はそこにはないので、これで構わないと思っている。

補3:創作には他者が必要である。しかし同時に孤独も必要だろう、という感覚もある。編集者と漫画家が題材となっている松本大洋の『東京ヒゴロ』で、ある漫画家が長いことひとり苦悩にさまよいながら、最後にアイデアの光を掴む描写を思い出す。創作と孤独、についてはまた考えたい。そして、生成AIと孤独、の相性はよいような感覚もある。