回想――IKEAというお店に憧れる子が,IKEAのリアリティを追求する。ホンモノみたいなIKEAがお部屋の中にできていく。でも,リアルなIKEAを知らない他の子に,それが何なのか分かってもらうのは難しい。閑古鳥がなく店舗で,IKEAスタッフは考える。子どもたちなりに知恵を出し,思いつく限りそれを実行していく。そのたびに,そのIKEAはリアルなIKEAとは違う,不思議なもの,ファンタジーをふくんだIKEAになっていく。大人の目からすると,IKEAっぽさが薄れたと見えるかもしれない。でも,IKEAを訪れる子は増えていく。IKEAを知らない子にも入り口ができたのだ。入ってしまえば,すべて楽しいIKEA。全体の雰囲気にも魅せられる。大繁盛。また新しいものが作られる。それはIKEAっぽいものであったり,そうでなかったりする。何れにせよ,どんどんIKEAは大きくなっていく。気づけば子どもたちは一日ずうっと遊びこんでいる。

A幼稚園でのフィールドワークをとおして,従来の「ごっこ遊び」研究が言う,現実と虚構の二元論では語り尽くせない豊かな実践を見てきた。そして,子どもの「遊びこむ」姿を支えるのは,リアリティとファンタジーの多層構造だと書いた(阿部2017)。A幼稚園の(年長の)保育室は,1年の最後には,リアリティとファンタジーが幾層にも折り重なった場となる。「すっごいリアルな場だね」とも言えるし,「すっごいファンタジーあふれる場だね」とも言える。どちらも正解だ。そして,本質はそれらの重なりにあると考えた。心理や発達という観点ではなく実践それ自体を見て書いたものだ。

3月。リアリティとファンタジーがお部屋いっぱいに,ぎゅうぎゅうと? みっちりと? 濃厚に? 存在するようになる。そこに生活の匂いが充満する。もう溢れそうなのか,まだまだいけそうなのか。当時私が追っていたのは,そこまでの多層構造がつくられているプロセスであった。

物事には終わりがある(一生A幼稚園の子でいることはできないのだ!?)。卒園前,子どもたちは自分たちの「おうち」に泊まり,翌朝自らの手で,自らの「おうち」をこわし,お部屋を空っぽにして巣立っていく。毎年行われる「おうちこわし」と呼ばれるイベントだ。そこ「まで」のプロセスを追っていた当時は,このイベントの(特に子どもたちにとっての)重大さを理解はしつつも,それのみを取り上げて何か論じることはなかった。拙著の最後の最後に,「よくわからない」ということを書いているのみだった。

年長の「おうち」「おみせ」については、3月の卒園式前の1〜2週間のあいだに、「卒園したらどうする?」ということが子どもたちによって議論される。自分たちの「こわしたくない」という思いや、来年の年長の子のために部屋を空けるという思いなどのあいだで揺れ動き、白熱した議論がかわされるが、多くの場合、自分たちの手でこわすという結論が出される。その結論が出た後は、「おみせ」の中をからっぽにし、その中で一泊するという行事が行われる。思い出のつまった部屋に泊まり、翌朝、自分たちの手で順番に「おうち」をこわしていくことになる。そして、その数日後、年度の始めのような姿になった保育室で、卒園式が開かれ、子どもたちは小学校へ巣立っていくことになる。この「おうちこわし」は、これまでの〈リアリティ―ファンタジー〉の多層性との別れの儀式のようなものなのかもしれない。泣きながら「おうち」と別れる子も多い。しかし……数日後の登園日には、子どもたちは案外平然としているのである。物理的にはその構造は消えてなくなったわけだが、それまでの経験はその子たちに一体どのようなものとして残されているのだろうか。

(拙著p.230)

今年,新型コロナウイルス感染予防のため,「おうちこわし」は行われなかった。正確に言えば,諸般の都合で致し方なく休園となり,子どもたち不在のまま,大人たちの手によって「おうち」はこわされた(余談だが,私が知る限りこの対応は3.11以来)。例年なら,長い期間をかけて行われる議論(話し合い)も,急な休園決定のため,たった1日――話題が持ちかけられてから数時間――のみとなってしまった。もしかしたら,きょうだいから「おうちこわし」のことを聞いていた子もいたかもしれない。年中のときの記憶があった子もいるかもしれない。それでも,5歳児にはとてもとても急な話しだったはず。何が起こっているのか……ピクサー映画冒頭の主人公のように何のストーリーに自分たちは巻き込まれているのか,分からない子が多かったのではないかと思われる。先生も,状況の中で苦悩しながら,なんとかその時間を意味あるものにすべく奮闘されていた。

当時から現在に至るまで,「おうちこわし」のプロセスを見ていて感動させられたのは,子どもたちの話し合いの様子であった。今でこそ,りんごの木「ミーティング」の実践なども有名になっているが,当時(院生で,授業づくりにプチ自信も持っていた頃)の私はそんなこと何も知らず,「5歳の子が,こんなに話し合うことができるのか」と自分の中の〈実存のお椀〉をひっくり返されるような思いであった。自分たちの,本当に身につまされるようなお題であれば,子どもたちはいくらでも話す,話したい。そして聴く,聴きあう。何時間も,何日も,話し合いは続く。「こわす」という物理的な行動よりも,そこに至る話し合いの中での,なんというか「人間らしさ」みたいなものに心を打たれていた。――こわしたくない,でもこわさなきゃ,君はどう思う?

そんな思い出があったため,今年の中止を知り,まず思い浮かんだのは,「充分な話し合いができなくて残念だ」という思いだった。話し合いは,たった数時間で終わってしまった。もっと心の淵をすくい合うようなことができたのに,コロナのばか,無念。そう思った。きっと先生も,無念であっただろう。こわす?/こわさない?/そもそもさ…結論がでなくて大変,だからこそ大切な時間を,子どもと織っていきたかっただろう。

でも,ふと立ち止まって考える。話し合いができること自体が大事なのか? もちろん大事なんだろうけど,「おうちこわし」で大事にしたいことは,本質みたいなものは,もっと別にあるのでは? 話し合いの時間がとれなかったら,それでオワリなのか? ここでは「話し合い」という「単元」が最後に用意されているのか?

(続く)