(A幼稚園の園だよりコラムの転載です)

昨今の事情により、おうちの中で子どもと過ごす時間が増えているのではないかと思います。これは想像でしかありませんが、つい「ふざけないで、真面目にやりなさい!」とか「遊んでばかりいないで、しっかり勉強しなさい!」とか、言いたくなってしまうこともあるでしょうか。しかしその一方で、「子どもは子どもらしく、精一杯遊んでもらいたい」という願いなんかもあるのではないでしょうか。どうやら、子どもとかかわるということや、教育・保育といった営みは、「真面目にしっかりやってほしい。けど、たっぷり遊んでもほしい」という、矛盾したような思いを抱えうるもののようです。

以前、このコラムで、アメリカの哲学者ジョン・デューイ(1859-1952)のことを紹介しました。現代の教育の基盤をつくったとも言える方なのですが、彼は、この矛盾問題に関わって、ある面白いことを言っています。

曰く、「……「遊び心」と「真面目な心」って、反対のもののように思えるかもしれないけど、一人の心のうちに同時に存在するものなんだよね。そして、それってとっても自然で理想的なことなんだよね……」とのことです。(筆者による意訳※)

「遊び心」と「真面目な心」は、分けて考えるのではなく、同時に存在するものだと捉えた方がよいと言っています。たしかに、大人の私たちも「真面目」に働くほどに、その仕事がいつの間にかやらされ感の強い「苦役」となってしまいます。仕事は「真面目」であるだけではダメで、どこか「遊び心」を発揮するところがないと続かない。また、「遊び」はただ遊んでいるだけではダメで、そのうちに悪ふざけがすぎたり、惰性で続けたりするようになってしまう。どこかに「真面目さ」と言うか、真剣に探究したくなるような部分を見いだせないと、「遊び」はダラダラ化していってしまう。……デューイは両者が共存したときに、人は創造的であったり、芸術的であったりすることができると言います。「遊び心」と「真面目な心」は、「分ける」のではなく「混ぜる」のがデューイ流のようです。

デューイの話に私は「なるほど」と思うのですが、同時に、自分の人(子どもや、仕事仲間など)とのかかわり方を再考させられもします。つい「真面目さ」を強いてしまうような場面で、「遊び心」をもってかかわれないのか? または、「遊び」がダラダラ化した時に、「真面目」に探究したくなる道筋を見せてあげられるのか? などなど……。一般的に、人はどちらかに思考が偏りがちだと思います。「真面目」タイプの人は心に「遊び」を、「遊び」タイプの人は探究したくなる「真面目さ」を。こうした発想は、ステイホームの1つのヒントになるでしょうか。

※原文は次のとおり。“To be playful and serious at the same time is possible and it defines the ideal mental condition.” (John Dewey, How We Think, 1909)