※A幼稚園 園だより掲載コラムの転載です。

「センスがいい」という言葉があります。「センスのいいプレゼントをもらった」「あの人はいつもセンスのいい服を着ている」「あの曲を好きだなんてセンスがいいね」など、日常的に使われる表現です。それにしても、「センスがいい」とはいったいどういうことなのでしょう。筆者としては、ストライクゾーンは外しておらず、それでいてそれがありがちになりすぎず、なんだか面白さユニークさも感じられるような判断や表現を指して「センスがいい」と言うような気もするのですが、どうでしょうか。でも、どうも、分かるようで分からない。

唐突にセンスの話をしましたが、保育においてもセンスは重要だという議論があります。A幼稚園においても「センスとタイミング」という言葉が言い伝えられているようです。また、子育てにおいても、センスというものを考えさせられる場面はあると思います。たとえば、子どもが何かをしようとしたときに、すぐに手を差し伸べるのか、いったん見守るのか。声をかけるにしても、いつ、どこで、どのように声をかけるのか。今、何に興味をもっていると見極めるのか。子どもとのかかわりに正解はないため――身も蓋もないとしても――そういった判断や行為をセンスという言葉で表現したくなるときは確かにあるだろうと思います。保育(子育て)という営みは、大人のセンスに支えられている(!)と言うことができるのかもしれません。

だとすると、それが捉えがたいものだとしても、センスとはいったい何なのか、センスがよくなるにはどうすればよいか知りたくなります。センスを磨くにはどうしたらよいのでしょうか。よく言われるのは、センスとは「天才的なひらめき」なのではなく、実は「量」がもとになっているということです。「センスがいい」人は、確かに何かをひらめくのかもしれませんが、その背景には大量の知識や情報があり、超・瞬間的にあらゆる可能性を検討できる。それがあるからこそ、ある1つの「センスがいい」判断ができるということです。センスを磨くためには、ひらめき力より先に、量が必要。保育で言えば、教育学や心理学、方法や教材、そしてもちろんあらゆるケースについてよく知っていることが重要となるのでしょう。(直接は関係なくても、アートやテクノロジー、コミュニケーション全般などの知見がセンスよく「量」に加えられることもあるでしょう)

他方で、哲学者・千葉雅也さんが近著、その名も『センスの哲学』(文藝春秋)でセンスを磨くポイントが「量」だけではないことを考察しています。その1つは、上手さを求めすぎないということ。自分が理想とするモデルの再現にこだわりすぎると、「上手いか/下手か」にとらわれて、つらくなってしまう。かりに上手くやれたとしてもなんだか個性がなくつまらないものになってしまうだろうし、どれだけがんばっても結局モデルとおんなじにはならなかったと否定的に見てしまいがちになるでしょう。千葉さんは「ヘタウマ」という言葉を使っているのですが、「上手くやらねば」という呪縛から自分を解き放ち、「ヘタウマ」でもよいからとにかく試行錯誤を重ねるのが大事ということです。

他に、物事のささいな部分に注目するという提案もあります。たとえば子どもの姿を見て、「子どもってすごいなあ」と感動することがある。それ自体は疑いようもなく素敵なことですが、その上でさらにセンスよく物事を捉えたいのであれば、「ささいな部分」に注目し、それを言葉にしていく必要がある。「すごい」という大きな感想を言うだけでなく、そのときの子どものささいな様子を小さいレベルで語る癖をつける。そうすることで、全体の営みを支えている1つ1つのポイントがリズムのように感じられるようになる。つまりセンスが鍛えられる、ということです。

簡単ですが、センスというものについて考えてみました。とりわけA幼稚園のように子どもとともに遊びを広げていくスタイルの保育では、即興的にセンスが発揮される場面ばかりでしょう。センスという観点がA幼稚園のユニークな保育を読み解くヒントになるかもしれませんし、センスよき保育を研究するためには観察者にもセンスが求められるのかもしれません。私ももっとセンスを磨かねば、と改めて思います。

※このコラムは、千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋)に触発され、保育実践を想像しながら自由に書きました。字数の都合もあり、千葉さんの議論を厳密に紹介できていませんが、1つの「ヘタウマ」としてお許しいただければ幸いです。