※A幼稚園 園だよりコラムの転載です。
「子どもを見る」ということは、保育の基本であり、本質でもあるはずです。言うまでもなく子どもは一人一人違った存在であり、大人の思ったとおりに計画(あるいは子育て)が進むことは稀でしょう。もちろん計画はいらないということではないのですが、目の前にいる子どものことをよく見て計画を柔軟に修正したり、ときに手放したりすることも大事であるはずです。
と、いうことについてはある程度「そうだよなあ」と感じていただけるのではないかと思うのですが、ここで問題になるのは、「子どもを見る」ということの難しさです。大人からすると子どもの行動や発想はときに不可思議であり、「自分はこの子のことをちゃんと理解できているだろうか?」と不安になることもあるかもしれません。
たとえば、隙を見ては棚や高い場所へ登ろうとする子がいるとする。この子の様子を、私たち大人はどう「見る」ことができるのか。「危ないことをする」「ルールが守れない」という困った行動として「見る」人もいるでしょう。そうした人は、倫理的・社会的視点から「見る」ことをしているのだと思います。あるいは、「登れるだけの筋力やバランス感覚がついたのだ」と「見る」人もいるかもしれません。言うまでもなく、体育的な視点から「見る」人ですね。何を言いたいかというと、「子どもを見る」といっても、どういう視点から「見る」かによって、見え方はぜんぜん違ってくるということです。
保育の専門家とは、ここに一例をあげたような様々な視点をスイッチしつつ、総合的に判断をできる人のことを言うのかもしれません。一つの見方にとらわれがちな私たち大人だからこそ、「他の見方もあるのかも」とやわらかく視点をスイッチできるようになりたいものです。
ところで、上に挙げた例は、「ルールを守れる」「高いところへ登れる」というものであり、子ども自身の「わかる・できる」という能力を評価するような視点と言うこともできるものです。他方で、近年では、子ども自身だけでなく、その子をとりまく物や環境にも着目しながら、子どもの姿を捉えようとする考え方が広がりつつあります。たとえば、棚に登るという行動も、「子どもが登った」のではなく、「棚が子どもを引き寄せている」とか、「棚が子どもとのかかわりをとおして遊びの装置に変わりつつある」といったように「見る」ことができるという考え方です。ちょっと不思議な見方だと思われるかもしれませんが、そういうふうにものごとを捉えると、目に映る景色が違ってくるということはありそうです。
そして、きっと世の中には私たちがまだ知らない「見る」方法がたくさんあるのだろうと思います。「子どもを見る」ということは、ただ観察をすることではなく、私たち自身のまなざしのあり方を問い直すことなのかもしれません。