午前中は、異学年混合の自由進度学習に取り組んでいる某小学校を参観させていただいた。学習のルールやゴール、インターフェースなどがうまいこと設定されていて、しっとりとじっくりと(もちろん自由な進度で)学習が進んでいく様子にたいへん感銘を受けた。(そして4年間の教員養成教育をどうしていくのがよいのか、途方にくれた笑)
午後は、柏市立富勢小学校へ。教師、地域、保護者、そして子どもが一緒になって次年度のカリキュラム構想を話し合う、第6回目の教育ミニ集会(教育課程創造ワークショップ)に参加した。あたりまえのように子どもが(任意で)参加しているのがよい。今日の様子からは、実践が充実していることはもちろん、こうした集会のデザインについても土台ができてきており、そしてそれがよい意味で今後の課題となっていくよう思われた。
そうした感想をふまえつつ、会の最後に「富勢小の研究・実践 現在地とこれから」と題した講演をさせてもらった。特に最近の実践の様子をふりかえり、心の底からほんとうに大事だなと思うことをお話させていただいたつもりである。主に3点。
1つめは、次期学習指導要領の方向性と富勢実践のかさなりについて。これは言うまでもない。「主体的・対話的で深い学び」の実装、社会の創り手を「みんな」で育む ということ。すべて、今日の集会で話されたことである。この場が、それ、であったと言える。このまま、新しい時代の教育の空へ、スムーズに離陸していってほしい。という話。(ちなみに、終了後の感想戦で、ある方が「多様性の包摂」の観点からはもっとやれることがあるはずと発言されていて、なるほどと思った。メモ)
2つめは、中間まとめにも書かれている、探究的な学びへ向かう力や人間性とは一体何なのか、改めて考えてみようという話。かなり距離があると思われたかもしれないが、ヴィクトール・フランクル 『夜と霧』(1946/新版)を引用しながら、そもそも人間って何なんだ!?という所から、私見をお話した。
ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄[くろがね]色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心をうばわれていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」 (pp.65-66)
思うに、人間とは、どんなときでも、世界に感動できる存在である。人間がもっているであろうそうした性質を、精一杯ひきだすことが、教育として重要であるはずだ。好き、興味がある、心動かされる、わくわくドキドキ…といった(誤解を恐れずに言うが)心の面へのアプローチが重要になる。さて、 富勢実践の枠はできたのかもしれない。では、その中で、本当の意味で、子どもの心は動いているか? いきいきと活動できているか? マンネリではなく、大人も子どもとともに感動できているか? もっとっもっと考えたい。 そこにカリキュラムの質を高めていくためのヒントがあるはずだ。もっというと、そこにしか、ないのかもしれない。
そして、人間とは、誰かと喜びを分かち合える存在である。地域学習において、活動をともにするのではなく、心をともにするということを考えたい。世界(地域)って素晴らしいんだよ、と大人が思っているか。そしてそう伝えられているか。これを、(やはり誤解を恐れずに言うが)教育方法のヒントとして考えたい。そんなふうに思うのである。
3つめは、庭師のエスノグラフィー、山内朋樹(2023)『庭のかたちが生まれるとき』を引用しながら。常に木々は育ち、石は転がる。 庭は、意図的なデザインと、偶然の産物である。もしかしたら、カリキュラムも、庭のように常に仮説的であるのかもしれない。庭師が庭の手入れをするように、カリキュラムを診て、手入れを続けてほしい。「手入れ」は、ものすごく価値のあることであるはずだ。という話。
役に立つ部分があれば、幸いだ。