敬愛大学教育学会紀要のICT活用に関する特集に、次の原稿を載せてもらいました。生成AIをほとんど使ったことがないという教職課程学生を対象に実施した、架空のストーリー設定にもとづいた自由進度学習風の授業についての報告です。生成AIを使おうと思う動機にあたる部分をストーリーとして提供してしまい、とにかくたくさん生成AIに触れてもらうことを目指しました。こういった対象の想定、こういった導入の展開もあるのではという1つの小さいアイデアとして、報告いたします。

阿部学・岡野健人(2025)「教職課程学生を対象とした生成AIについて学ぶ授業の構想と実践」敬愛大学教育学会紀要、第4号、pp.1-7、2025年2月

わりとゆるやかな書きぶりが許されるような特集だったので、最後に次のような話も書き足してみました。遊ぶように生成AIを使い始め、次第に「まじめ」に使うようになっていく。そのことについての違和感です。自分は、生成AIひいては今後の学校教育を考えるうえで、大事なことであるように思うのですが、どうでしょうか。

 遊びの哲学に取り組むSicart(2014=2019)は、「人間が持つ能力のうち、もっとも興味深いもののひとつは、目に入る物をほとんど何でもおもちゃにしてしまえるという能力である」(p.70)という興味深い指摘をしている。人は、遊び心によってあらゆる物を遊びのための道具=おもちゃに変えることができるということである。遊びというとふざけたもの、不まじめなものというイメージも想起されうるが、Sicartによれば、遊びこそが、自己を理解する方法であり、他者とかかわる方法であり、世界を解釈する方法である。物をおもちゃにして遊べるということは、創造的な営みなのだと解釈することができる。
 さて、先に授業の様子を記述する中で、生成AIを使いだす様子が「まるで子どもが与えられたおもちゃで遊び出すときのようだと感じられた」と書いた。ところが、そのままパソコンに向かい作業を続けるにしたがって、学生の生成AIとの対話が「まじめすぎる」ものになっていくと感じられることが何度かあった。むろん、学生は熱心に課題に取り組んでいるので、何の問題もないと考えることもできる。しかし、生成AIは「まじめすぎる」使い方ではなく、遊び道具として、おもちゃとして、遊び心をもって扱われた方が、そのポテンシャルを発揮できるのではないかとも思われるのである。Sicartは、「おもちゃは空想の羽を広げるためのネタであり、想像の世界の入り口だった」(p.72)と言う。生成AIを使いながら空想や想像をもっと自由に広げさせるには、一体どうしたらよいのだろうか。より広い視座から言い換えれば、とかくまじめさが志向されがちな教職課程において、学生の遊び心を育むにはどうしたらよいのだろうか。こうした問題について考えながら、次の授業を構想していくことにしたい。