柏市立富勢小学校。校内研修の講師をつとめた。36度のとろけそうな日。夏休み初日であった。暑かった。今年度の研究ーマが「子どもが主語になる授業」ということで、今後へ向けたキックオフ的な話をさせていただいた。

一般に、校内研では様々なテーマが設定される。国や教育界の動向をふまえ、それをうまくならした表現にされることが多いように思うのだが、私としては、どんな表現であっても、その言葉をていねいに解釈することが重要だと思っている。一般論として、もともとのテーマ設定が妥当かどうかはさておき、一度設定した言葉をおざなりにしていては、何を研究するのか、どんな実践を目指しているのかがわからなくなってしまうだろう。そういう思いもあって、今回の「子どもを主語にする」ということはどういうことなのか、自分のこれまでの実践・研究をふまえて、うんうんうなりながら考えた内容をプレゼンに仕立て上げてお話させていただいた。考える中で、やはり「子ども主語」というときに、斎藤喜博などからはじまる日本の授業づくり史をはずせないと思ったし、自分がかかわってきたゲーミフィケーションや授業の構成・演出の話もそこからつながるだろうと思った。そういった話をさせていただいた。話のかいもあってか、そもそも話なんていらなかったのか、その後の授業検討も暑かった。

校長先生の記事
https://kashiwa.ed.jp/tomise-e/%E6%A0%A1%E9%95%B7%E5%AE%A4

今回のお話を考える中で、授業づくりとは「2つの分水嶺のあいだをセンスよく駆け抜けること」なのではないか?と思った。今回でいえば、「子ども主語」と「教師主語」の分水嶺。どこかに判定基準があるのではない。この2つの分水嶺のあいだで、私たちは悩むのだろう。そこを、なんとか、センスよく駆け抜けられないか。あるいはこの日の前々日。企業教育研究会が開催した「授業づくりハッカソン」。企業と連携した授業を規定の時間内で考えるというイベントなのだが、その様子を参観し(いつものように)「まじめ」と「遊び」の2つの分水嶺があると感じた。まじめすぎる思考でもいけないし、遊びすぎる思考でもいけないはず(今回こっちに道をはずす案はなかったが)。そのあいだを、センスよく駆けてほしいのだ。むろん、最近イリイチの読書会をしていることと、千葉雅也『センスの哲学』の「読書の残響」があったことは確かである。でも、自分でいうのもなんだが、わりとセンスよいことを言えているのではないのかと思う。「授業づくりとは、2つの分水嶺のあいだをセンスよく駆け抜けること」である。どうですか?