昨年度から引き続き研究をともにさせていただいている柏市立土小学校で、今年度のふりかえりの研修会がひかれ、講師として参加した。
土小学校は、これまで「オーセンティック・ラーニング」 「問いストーリー」といったユニークなテーマのもと、探究的で教科横断的な授業づくり・カリキュラムマネジメントに取り組んできた。今年度は、ここ数年の取り組みをまとめあげる言葉として「つなぐ学び」というシンプルでありながら深く、どっしりとした言葉を掲げ、すべての先生が創意工夫ある授業づくりに挑戦された。柏市の「みんなでつくる魅力ある学校」の指定校だったこともあり、公開授業には非常に多くの方も訪れていた。
今回の研修会はポスターセッションの形式で、「つなぐ学び」としての実践、そのポイントなどが紹介された。運営も見事で、すべての先生のご発表を聞くことができた。出過ぎたかとも思ったがすべての先生に個別にコメント(お話)をさせていただくこともでき、単純に、楽しかった。(ポスターセッションって、「がやがや」してあまり好きではないと最近思い始めていたのだが、こんなふうにちゃんと交流できるならとてもよいなと思った)
最後に、「今後の研究へ向けて」と題したお話をさせていただいた。ここ数年の取り組みにすんごくリスペクトを示した上で、いくつかの提言をした。
その話の下地とさせてもらったのが、山内朋樹(2023)『庭のかたちが生まれるとき』(フィルムアート社)の議論である。この研修会で何を話そうかと考えているときにたまたまであい、参与観察関係のジャンルで今の時代にこんな刺激的な論考があるのかと感銘を受けた本である。庭師でもある山内氏が、京都・補陀洛山観音寺の庭がいかにつくられていくかを追ったフィールドワークがまとめられている。
庭、というと教育とは遠いものに思われるかもしれないが、そこをアクロバティックにつなげて読むと、触発的で、とてもおもしろく読める。きわめつけは「庭とは持続的な手入れに依存する仮設的な配置や程度のことだ」 (p.34)という表現である。これをカリキュラムマネジメントに引きつけて読むと面白い。挑戦的な実践は、いずれまとめられ、形となっていく。それはそれで疑いようもなく望ましいことなのだが、形となってからすぐに、マンネリ化、形骸化、下手なモノマネ化の可能性にさらされるのもの事実である(子どもも木々のように(?)自由に成長していく。せっかくつくったカリキュラムが馴染まなくなるかもしれない)(また、先進的実践をもとに次の教育課程を考える方々がこうした課題をどこまで考慮しておられるのかは疑問:これは余談)。
土小は、挑戦してきたからこそ、これからそうした課題に抗わなければならない。「『カリキュラム』とは持続的な手入れに依存する仮設的な配置や程度のことだ」からである。今までやってきたことはめちゃくちゃ面白く、意味がある。形にもなってきた。すごいことである。しかし、これまでの挑戦(カリキュラム)は「仮説的な配置や程度」なのだと受け止め、そしてどう「持続的な手入れ」をしていけるか。それが課題となるだろうということを、私なりに話した。これ、結構簡単なことではないと思うのですよね。
ということで、「手入れ」のヒント。1つは、「目指す子どもの姿」に戻ることである。子ども主体の授業を考えていたとしても、その語り口がどうしても教師がいかに授業をつくったかという風になってしまうのは「あるある」である(そうした意味では「ポスター」として「まとめる」功罪もあるかもしれない)。山内氏は庭師は「いまだはっきりしない物のありようを「見る」のみならず「診る」」(p.85)と言う。カリキュラムマネジメントの時代において、教師はカリキュラムをデザインする訳だが、実際の子どもの姿を見て、いや「診て」、どのように配置や程度を変えていけるのか。そここそが、本当に大事なことなのかもしれない。うまくいった結果ではなく、そのプロセスをどう記述し、語り、共有していけるだろうか。そして、誤解をおそれず言えば、どう評価し合えるだろうか。
カリキュラムマネジメントの時代においては、子どもを「診る」ことが決定的に重要だ。そう思うべきだ。そんなことを思った。そのためにも、「手入れ」や「診る」ことの教育の哲学が必要になってくる。