柏市富勢の小中学校に、総合・生活のカリキュラム開発の支援にかよっている。同地区では、「地域の担い手を育む」をテーマに、9年間の総合・生活のカリキュラムを構想・実践中である。研修会の講師をつとめる他、ちょくちょく実践の様子を見させてもらっている。今日も一日、総合・生活の授業を参観させていただいた。
ある先生の、4年生の授業がおもしろかった。防犯・防災など、安心に暮らせる地域ということを探究のテーマとしながら、地域の安心をつくってくれている実際の人たちの話を聞いていこうというカリキュラム。それだけならよくある話のようだが、おもしろいのは、話を聞く人たちがこれまで10人?20人?そしてまだ続いていくという所。とにかく大量(と言っていい人数だと思う)の方々が教室に来てくださり、子どもたちは大量のインタビューをこなしていく。それをデータとして整理していく予定とのこと。
通常、地域の方の話を聞くとなると、よくあるのは主要人物(?)1人。あって関連人物、数人という感じではなかろうか。特定の人の話をじっくり聞いて、「その人」の思いに共感しながら課題に向き合っていくということは、学びのストーリーも明確になり、方法の工夫として「ありうる」ものであるように思われる。その人への共感を起点としながら、子どもたちの探究の質が深められていくことが期待される。
他方で、こちらの特徴は「量」である。1人の思いを質的に深めていくのではなく、量的にたくさんの人の思いを総ざらいしていく。1つ1つの思いの深まりは浅くなりそうなものだが、逆に、そこがおもしろい。1人の熱い思いを聞く作戦では、それが響かない子もいるかもしれない。でも、大量の話を聞いたならば、その中に1人くらいは響く話があるかもしれない。確率論的な話である。何がどう響くかは、子ども1人1人によって違うだろう。それは強制的な共感ではなく、とてもリアルなことのように思われる(むしろ1人への共感授業を反省させられる)。また、「量」を追うことによって、全体の傾向や、特殊性などについても、データ的な分析が可能になるはずだ。それはとても現代的なことのようにも思う。
1人のゲストが子どもに話をするとする。そのとき、ゲストの方は子どもに分かってもらえるように話を工夫するはずである。それはとてもありがたいことである反面、その話は、子どもの理解しやすいような枠におさまり、子どもの想像の枠をこえていかないようなものとなるのかもしれない。しかし、何十人もの話となれば、良くも悪くも(笑)子どもには理解できない話がなされることもあろう。それもそれでリアルであり、探究の種になるようなものになるのではないか。
私としては、「量」があるなら、テキスト分析や、生成AI活用による分析なども試してみたいと思うが、何にせよ、「質」的な地域学習の他に、「量」的な学習もあるのだということに、大いに学びを得たという思いである。この時代、「量」にアプローチした方が、地域の人の思いを真に掬えるのではないか? さらに考えてみたい。