敬愛大学・千葉敬愛短期大学メディアセンターは毎年,学生向けに教職員がおすすめの本を紹介する小冊子『君にすすめる一冊の本』を発行しています。短いものですが今回は阿部も寄稿しました。教育学に関する本が想定されるのだとは思いますが,ゲームデザイナー・小島秀夫氏のエッセイを紹介しています。原稿依頼があった時期に,最新作「Death Stranding」にハマっていて,何でもいいので何か書きたかった次第。冊子中の他の原稿は,もっとそれっぽい(?)本が並んでいます。


◉創るために、読む―何のための読書か?―

『創作する遺伝子―僕が愛したMEMEたち―』
小島秀夫 著 
新潮社/新潮文庫 2019年 630円

斬新なゲームシステムや高い作家性で、絶大な評価を得ているゲームデザイナー・小島秀夫氏によるエッセイ。「ゲームをやらない」という人は知らないかもしれないが、代表作である「メタルギア」シリーズは累計五五00万本以上を売り上げ、最新作「デス・ストランディング」は世界中で数十個のゲーム賞を受賞している。世界的に有名な日本人の一人である。そんな彼自身が、「小島秀夫という人間と、作品を創った」という、つまりは大きな影響を受けたという本や、あるいは映画や音楽について語った本である。(「本を紹介する本」の中で、「本を紹介する本」を紹介するのは邪道だろうか?)

紹介される作品は多岐にわたる。教科書にも載っている中島敦「山月記」、アガサ・クリスティや宮部みゆき、ホラー漫画「漂流教室」、映画も大ヒットした「海街diary」の原作、有川浩、安部公房、刑事コロンボ、クレヨンしんちゃん……。知っている作品はあるだろうか。本書の読み方の一つは、「クリエイターはあの作品をこんな風に読むのか」と他者の解釈を楽しむことかと思う。小島氏を知っている人は尚更楽しめるだろう。知っているあの作品が、違った輝きで立ち現れてくるかもしれない。

もう一つの読み方として、「何のために本を読むのか?」という答えを探りながら、俯瞰的に読むことをオススメしたい。「読書」と「ゲーム」というと、対極にあるものと思われるかもしれない。「本を読みなさい」と言われる一方で、「ゲームはいけません」と言われて育ってきたという人もいるだろう。しかし、本書からは両者が密接に繋がっていることが分かる。ゲームを創る人は、ゲームばかりをしている訳ではない。ゲーム以外の何か(たとえば、本)から様々なことを吸収し、それらをゲームの上で再構築しているのだ。氏は言う。「僕の作品には作家性があり、オリジナリティがあると評価してもらえている。それもまた、本屋に行って本を選ぶという行為に支えられている」。ゲームを創るためには、読書が必要なのだ!

読書は、受け身の「お勉強」のためだけにあるのではない。本書をとおして、「創るために、読む」という能動的で新しい読書世界へ繋がろう。ゲームでなくともよい。「クリエイティブでいたい」「何かを創る仕事をしたい」と願う人に、本書をオススメする。巻末にはアーティスト・星野源氏との対談も載っている。そちらを入り口にしてもよいだろう。(阿部学)


(メモ)ゲーム研究者の井上明人氏が言っているように,「Death Stranding」はゲームメカニクスのベース部分がかなり巧みにつくられている。そして,そのベースの上に描かれる「ストランド・ゲーム」というコンセプトは非常に新鮮なもので,個人的にはとてもたのしくプレイすることができた(そのたのしさの質もなんだか不思議なものだったが)。ゲーム体験を,新しいものにアップデートしようとしている,と感じた。/この体験は,私の立場からすると,ゲーミフィケーションとは何なのか改めて考えさせられるものでもあった。ゲーミフィケーション研究においては,ゲームの基礎的な部分,本質的な部分に注目「しがち」になる。マリオやドラクエ,もっといけばポンも重要な参照元となる。そうしたゲームの原理・本質・古典探究から何かを導くことの重要性をもちろん認めた上であえて言うと,ゲーミフィケーション研究はゲームに対して後ろ向きになってはいやしないかと反省してみたいのである。この概念もずいぶんと広まり,「古典に学んでゲーミフィケーション完了!」「マクゴニガルみとけばおっけー!」となっている例も少なくない(そして「つまらない」ものも多い)ように思われるのだが,「それで良いのか?」という問いである。/ゲームの基礎というものはもちろんあるだろう。その上で,ゲームも常に進化している。今,ドラクエ1がそのままの形で発売されることを,マニアックな人以外は誰も望まない。小島氏も言うように映画とゲームの境目がとけるような,新たなメディア,エンターテイメントが生まれていくかもしれない。・・・その時,〈ゲー〉ミフィケーションは,相対的に時代遅れのものになってはいないか。我々は今,ゲームの範囲を超え出でようとするゲーム?要素にこそ着目すべきではないか。そして,新しいゲームがつくられる〈よう〉に,新しい授業をつくっていくことが重要なのではないか。前向きに進化するゲームの,その前方向を見つめ追いかける(追い越す)ゲーミフィケーション×授業づくり研究はできないか。更にに言えば,ゲームにならうだけでなく,ゲームのあり方を授業の側から問い直すようなことはできないか。授業だって創造的な営みだ。授業が先へ行くこともあるだろう。・・・等々。/A幼稚園の子どもたちの営みは,古い言葉で言えば「ごっこ遊び」なのかもしれないが,探究の末に「ごっこ遊び」とは呼べないような「ナゾの何か」になっている。でも古いメガネの人には,それは「ごっこ遊び」にしか見えない。しかし,それを「ごっこ遊び」と言ったところで,なんの意味も生まれてこないのである。/「ゲーム」のメガネをはずして,今あらためて,今のゲームを見つめてみることが必要なのかもしれない。