表題のとおり。2月、という感じがする。
メモ。
午前中は、X小学校。3Dプリンタを活用した2年・図工の研究実践を参観。実践者の先生とともにアイデアを出し合いながら、数時間にわたる実践をやってきた。今日で、終わり。これからまとめていく。
・たとえば、論文をPC書いて、最後の最後に紙に印刷してチェックすることはないだろうか。ない、かもしれない。ある〜!かもしれない。自分は「ゆるICT推進派」であるが、後者である。ディスプレイなどの物理的な問題もあるのだと思うが、自分としては、PCで作業を続けるといつまでも表現が仮固定のままで、いくらでも即時修正が可能な感じがしてしまうという意識的な問題の方が大きい。現に、いくら終わったーと思っても直せてしまうし。紙に印刷するという行為は(儀式的な感じもするのだが)自分の表現をいったん固定するものであるように感じる。いったんは、直せない状態で形にする。自分の外部に表現を置く。外部に出たそれを見て、直すところを探していく。外部だから探しやすい。もう直せないという意識だからこそ、直すべきところが見えてくる(「死」の問題じゃないかとも思う)。粘土の造形はいくらでも、いつでも直せる。そのことの良さはもちろんあるけれど、表現というのはいったんちゃんと死(アウトプット、外部化)を迎えないと、その後によりよく生きられないのではないかという気もする(The La’sを思い出す)。子どもたちは粘土でつくったキャラクターをいったん3Dプリンタで出力する。出力したものは変えられない。それを見たときに、どう思うか。違う、と思うだろう。直せないからこそ、違うと思う。そして、もう1回つくりなおしたいと思う。そうした様子が見られた。
・表現のためのテクノロジーは様々に生まれてきている。3Dプリンタの活用事例はまだかなり少ない。そうした新たなテクノロジーに触れたとき、子どもたちはそれをどのように自分のものしていくのだろう。ハサミのように? ガムテープのように? 「釘」と「金槌」のように? 3Dプリンタの癖を読む。1回やってみて、2回目はちがう作戦で。その理解、切り替えが早い、すごい。
・2Dから3Dへ。子どもたちは、紙に書いたアイデアをもとに3Dのキャラクターをつくろうとし始めた。ところが、たいていの案は、「うすっぺらい」キャラクターになっていた。それが出力されると、もちろん「うすっぺらい」ものになる。じゃあ、もっと「ぷっくり」したものにしないといけない。そのことが「見て」「分かる」のが興味深い。
・触る触る(!)。できあがったフィギュアを愛でるように触る。フィギュアだから触れる。粘土ならさわれない。くずれるから。こうした整理が妥当かは分からないが、アートは触れない。でも、「おもちゃ」なら触れる。(2個くらい、壊れた。触ったからこそ、壊れたのだ)
・3Dプリンタはおもしろい、ということが分かった。ここにもう1つレイヤーを重ねたい。学校探検、社会科、地域学習、、
午後は、柏市立富勢小学校に移動。「教育課程創造ワークショップ(教育ミニ集会)」が行われた。校長による次年度のカリキュラムの計画の説明、児童会児童による「こんな学校・授業にしてほしい」という提案(!)、カリキュラムについての各学年でのポスター的セッション(そこに地域、保護者、子どもが参加する)が行われ、最後にまとめの話をさせていただいた。地域・保護者連携のこうした場がつくられることもすごいことなのだが、なんといっても子どもがこの場に同席することがすごい。「こんな授業にしてほしい」という話の中に「遊び心」という言葉があって、その後の私の話にもその言葉を取り入れていたため、もうたまげた。私の話は「社会も変わる、学校も変わる」というお題で、世代による学校のイメージの違い、学習指導要領の変遷、子ども理解の解像度の移り変わりなどをさくっと解説したものであった。変化を求める富勢小学校の取り組みは特別なものではなく、でも特別に意識をもたないと時代を掴むことはできない、という趣旨であったが、どうだっただろうか。終了後、ある一人の子から、「おもしろかったです」と言ってもらえて感激。けっこう難しい話だったんだよ!