いじめ問題に関する研究・実践にかかわる機会が増えた。具体的な事案にかかわるほど、難しく悩ましく、そのつどのうみそをぞうきんのようにぎゅっとしぼっている。人の役に立つしずくを一滴でもしぼりだせたらよいのだが。

ある場にて、「SNSを介したトラブルが起きた。学校で啓発や防止教育を進めるにあたりどのような視点が必要か?」というご質問をいただいた。急ぎのうみそをしぼった結果、あたりまえの話しかできなかったかもしれないが、なんだかひっかかるところがあったので、言葉を付け足してここにもメモしておきたい。

まず基本的に、中学生以降などある程度の年齢の子のいじめ事案であれば、対面とSNS(というかスマホネットメディア全般)に線を引いて考えてはならないだろう。こうした理解はちょっと冷静になればあたり前だと思われるものかもしれない。しかし、もしかしたらいじめ問題に真摯に取り組もうとするほど、それらを別物と考える誤謬に陥ってしまうこともあるのだろうか?と思った。日頃からいじめ問題に真摯に取り組んでおり、ココロの面での教育は充分になされている。だとすれば、問題が生じた(る)のは子どもをまやかすSNSのせいだ。SNSをなんとかしていれば、いじめは起こらなかった(起こらない)はずだ、という具合である(念のため記せば、この場にいた方がそういう考えをお持ちであったという訳ではなく、私が勝手に想像しているだけである。しかし一般論としてそういう問題はありそうだ、と思うのである)。しかし、たとえばSNSで陰口が広まったとして、たしかにSNSの拡散力はあるのかもしれないが、そのおおもとにはスマホにふれる指先があり、その指を動かそうとするココロがあるはずである(逆だったり不可分だったりするかもしれないが、ここでは比喩的表現としてこう語ってみる)。また、そのココロは、クラスや部活や友達関係などの環境のなかで生じてくるもののはずである。そうしたあれこれが摩訶不思議にごちゃまぜになって、結果としてある問題が顕在してしまうはずである。SNSを止めれば問題がさっぱり消える訳ではないだろう。あたり前の話だが、日頃の人間関係や環境をどう考えるかが大事であるはずだ。それが難しい訳なのだが。

何かが悪であると確定すれば、自分の不安ははれるのかもしれない。が、でも、私たちはホントウの問題がなんであるのかを常に考えていかなければならない。この場合、それは、見えない人のココロを考えるということである。もしかしたら、どれだけ見てもずっと見えないままなのかもしれない。それは、問題解決に真摯に向かおうとする人の実存的不安なのかもしれない、と思った。もしそうだとして、いったいどういう助言・支援の仕方がありうるだろうか。これは私の課題である。「もっとココロに寄り添おう」と言うほどに、人の不安は大きくなり、結果として「◯◯が悪だ」という誤謬に陥りやすくなってしまうかもしれない。

また他方で、矛盾するような言い方になってしまうのだが、私たちはSNS(や、様々なスマホネットメディア)の特徴についてもよく理解してお科なければならない。ここからは教育方法的な観点にもなるのだが、啓発・防止教育をするにあたっては、やはり子どもがリアリティを感じられる指導がなされる必要があると言える。そして、そのときに2つのリアリティがあるだろうかと考えた。1つは、事例のリアリティである。いまSNSで具体的に実際にこういう事例が起こっている。だから気をつけよう。というリアリティである。ありもしないトラブルを想定された指導では、教育は空虚となる。事例のリアリティは重要だ。一般的には、外部講師による「最新事例」がこの部分をカバーしているのかもしれないと思った。もう1つは、ココロの面のリアリティである。冷静になれば悪いと分かるはずなのに、なぜ、人はああいった行動をとってしまうのだろうか。なぜ、ステメやストーリーに巧妙に悪口を書いてしまうのだろうか。なぜ、ひとりだけ見切れた集合写真をUPしてしまうのだろうか。なぜ、オンラインゲームをやっていると暴力性が高まってしまうのだろうか。なぜ、SNSでは誰かをあんなにも過剰に叩いてしまうのだろうか。なぜ、ドッキリ的悪ふざけ動画を撮ってしまうのだろうか。なぜ、いろんな行為がエスカレートしやすいのだろうか。等々。人はつい「自分はだいじょうぶ」「自分はやってない」と思ってしまうものである。その膜を破って「ああ、自分にもそういうところがあるかも」と思えるかどうか。そうした意味でのリアリティもまた重要なのではないか。

一般的に、前者のリアリティに関する指導は多くの地域・学校でなされているだろうと思う。その上で、後者の指導にどこまで踏み込めているかが、実効的ないじめ対策の鍵となるのではとも思う(自己反省的に言うと、知らない事例が報告されると「なるほど」とフシギな納得をしてしまい、そこで思考停止してしまうことも少なくない。あれはなんなんだろう)。そして手前味噌だが、Changers教材はそうした課題に向き合おうとするものだと考えることもできる。いまは情報モラルに関する教材は少ないが、今後ちからを入れていくことも提案していきたいと思った。様々な会議の場では、「◯◯という教育をした」「◯◯という事案があった」というラベルだけが報告されることがほとんどである。時間の都合や報告という主旨もあり仕方ないことであろう。私たちがそこから後者のリアリティについて想像しなければならない。

ぞうきんのしぼり方にも勘所があるのかもしれない。