(A幼稚園 園だより掲載コラムの転載です)

学校(こども園)で生活するということの一つの特徴は、「ともに学ぶ」ということだと思います。学校での生活は、自分とは近しい立場にいる親、家族とはちょっと違った人たち(偶然いっしょに生活することになったクラスメイトや先生など)との共同生活です。子どもたちは、その「ちょっと違った人たち」とかかわる中で、楽しさや喜びを共有したり、支え合ったり、ときにケンカなんかもしたりしながら、社会性のようなものを身につけ、外の世界に開かれていくことになります。ある研究者が「三者以上の集団」を「社会」と定義しているのですが、社会の中で生きていく力を養うためには、子ども一人で過ごすだけでもなく、家族と子の二者的関係だけでもなく、ちょっと違う第三者的な他者と「ともに学ぶ」ということが必要なのでしょう。

しかしながら、「ともに学ぶ」ことの意味は、「一人で学ぶ」ことに比べると、なかなか捉え難い。「一人で学ぶ」……たとえば、テスト勉強のために一人で努力したことの成果は、そのテストの結果である程度は判断することができるでしょう。他方で、「ともに学んだ」ことの成果のようなものがあったとして、それをどうやって測ったらよいでしょうか? そうした場合には、テストにおける数字のような指標で<判定>するのではなく、いろんなキーワードを使いながら「こう捉えられるかな」「あるいはこうも考えられるかな」と解釈を深め<納得>を目指していくことが重要となるはずです。

これまでたくさんの人が、「ともに学ぶ」ことの意味を解釈するためのキーワードを紹介してくれています。その一つが「共感する力」です。先に言ったことと矛盾するようですが、「ちょっと違った人たち」と長くかかわっていると、いつからか「おれたちは仲間だ」という意識が生まれてくるものです。もともとは「違う」存在だった人たちが、密にかかわり合うことによって、その違いを踏まえつつも「同じ」ところがあると互いに認め合えるようになる。社会性の芽生えだと思います。その境地に至るためには、自分だけのことを考えるだけでなく、他者のことを慮ることが必要です。つまり、他者に「共感する力」が必要なのです。この力が社会を生きていく上で重要な力であることは疑いようもありません。

子どもたちの活動は、「おみせ」や、その他さまざまな活動として現れます。一人ではできないことばかりです。もし、「おれたち」でつくりあげた「おみせ」が、大人も魅するほど素晴らしいものであったのなら、そこには子どもたちの「共感する力」の育ちがあったのだと解することができるのではないかと思います。