みなさん,本日はご卒業まことにおめでとうございます。

この4年間,楽しかったですか? 大学の4年間というのは不思議な期間です。身体的にも大きくなり,思春期をくぐり抜ける中高生の時の方が,成長の幅は大きいはずですが,この4年間,それと同等以上の経験をみなさんはしてきたのではないかと思います。その期間のいち部分をともに過ごすことができ,私はとても幸せでした。

しかし,そんな日々も今日で終わりです。固く言えば,「用意されたカリキュラムの上を走る人生」「誰かに筋道を立ててもらう生き方」は終わりです。長い学校教育が,今日終わるのです。

そして,これからみなさんが旅立つ社会は,このおめでたい日に遠慮なく言ってしまえば,決して希望に満ちたものではなくなってしまっています。4月から,霧がかかる中を飛び立っていかねばならない。そのさきは晴天かもしれないけれど,雷雨や暴風が吹き荒れているかもしれない。「人生,何が起こるかわからない」という言葉をあちこちで聞きますが,今ほど,その言葉の意味が重くのしかかることはありません。今,この世界は,みなさんが巣立っていく世界は,多くの人が喜びではなく,哀しみを抱えて生きている世界です。 100日後にだって,何があるか分かりません。

困難な時代を生きるには,何かしらの知恵が必要でしょう。

さて,この4年間,みなさんは「何」を学んできたのでしょうか? 聞いたことがある人もいるかもしれませんが,教育,教育学は,「雑学」だとも言われます。教育,教育学とは,色々な要素がからみあっている営みであって,よくわからない学問なのです。

私なりに,「教育学とは何か?」と考えることがあります。1つの答えは,「他者の哀しみに寄り添うこと」を学ぶ学問なのではないかというものです。

勉強が苦手な子,授業がつまらないという子,障害があり困っている子,外国籍の子,左利きの子,働き続けられない人,迫害される外来種※などなど。人は,他人には分からない哀しみを抱えているものです。その哀しみを前に,その人のために自分は何ができるのか,それを学ぶ学問が教育学であり,みなさんはそれを学んできたのだと思います。学校とは違う場所に旅立つ人もいます。行き先は違っても,「他者の哀しみに寄り添う」そのことを,自分の信念として,武器として,専門として,糧としていってほしいと思っています。

哀しみを抱えながら生きる。大変つらいことです。今日卒業式を行い,みなさんと喜びを分かち合えなかったのも,大きな哀しみの1つであります。

しかし,人は喜びだけでなく,哀しみでもつながることができます。哀しみがそこにある時,人は誰かのために何かしたいと思ったり,優しい言葉をかけたり,ただそばにいてみたり,します。哀しみは,私たちが他者と生きることの源泉でもあります。

私の話で恐縮ですが,みなさんと同じく大学生を終える時,ずっと続けていたバンドが解散しました。売れないバンドでしたが,真剣にやっていました。解散は仕方ないものでしたが,大きな哀しみでもありました。解散の時,先輩のバンドから贈られた曲があります。その曲を今からうた…いはしませんが,その曲を今朝も聞いていました。もう15年も前の曲,誰も知らない曲です。別れは哀しいものだったけれど,そこから湧いてくる気持ちや,大切に残るものもあります。

他者の哀しみに寄り添うこと。私の例を出すまでもなく,皆さんが学んできたことであるはずです。どうか,これからも,他者の哀しみに寄り添える人であってほしいと思っています。

そして,哀しみとは,私的な側面が強いものであり,哀しみを共有する関係は,家族的であったり,友人的であったり,そういう風になりがちだとも思います。いつもは,喜びを分かち合い,卒業生を送ります。今日は,哀しみを抱えながら,みなさんを送ります。これから,この世の中がどうなっていくのか,私には分かりません。しかし,同じ哀しみを抱えた友人として,みなさんには幸せであってほしいと,心から祈っています。困ったことがあれば,連絡をください。友人ですので。便りがなくたっていいです。「みんな元気でやってるんだな」と想像します。

かけがえのない友人たちへ。卒業おめでとう!
令和2年3月23日。友人代表。