A幼稚園の園だよりに載っているコラムの転載です。

ご存知のとおり園舎の改築が進んでいます。このコラムを書き始める少し前,園庭側にあった仮囲いが外されました。M組とT組があったはずの場所はまっさらな状態となり,これまでとは違う空が広がっています。

たくさんのお店が並んだ保育室を思い出します。何でもできるA幼稚園は,子どもたちにとってはキラキラかがやく「遊園地」のような場所であったかもしれません。みんなが毎日遊んでいたその「遊園地」は,「原っぱ」のような何もない場所となってしまいました。

「遊園地」の消えた風景にいささか寂しい気持ちにもなるのですが,一方で,「A幼稚園の保育室ってそもそも「原っぱ」みたいなものだったのでは?」なんて言葉遊びのようなことも連想してしまうのです。

ある建築家の方は,「遊園地」とは「あらかじめそこで行われることがわかっている」(青木2004)場所だと言います。アトラクションは設置者によって用意され,そのアトラクションを目当てに私たちは「遊園地」へ向かいます。「こう遊んでね」と設置者に指定されたルールどおりに遊ぶのが「遊園地」の楽しみ方です。ルールの逸脱や上書きは基本的には忌避されます。ディズニーランドでドッジボールをする人はいません(たぶん)。

一方,「原っぱ」には、何もありません。「ドラえもん」の世界なら,無造作に土管が置かれているくらいでしょうか。そこにはディズニーのようなルールもなく,もちろん分かりやすいアトラクションもありません。そのかわり,土管をベンチ代わりにするのも,かくれんぼの場所にするのも自由。子どもたちはそこで,自分の手やアタマを使って遊びをゼロから創造していくことになります。誰かに遊ばされるのではなく,自分で遊びをつくるのです。それが豊かな営みであることは言うまでもないでしょう。

大雑把な分類にはなりますが,世の中には「遊園地」型の教育施設もあれば,「原っぱ」型の教育施設もあるのだと思います。そしてやはり,A幼稚園は「原っぱ」だろうと思うのです。たしかに,保育室をチラッとのぞくと,あふれるモノやお店に魅せられ,そこがあたかも「遊園地」のように見えることもあります。しかし,あえて何もないお部屋からスタートし,他の誰でもない自分たちの手で自分たちの生活をつくっていくプロセスや,それを可能にする「原っぱ」的環境の方に,この園の保育の本質があるのだろうと思います。

勝手に想像すれば,新しい園舎もきっと「原っぱ」のようなものになるのでしょう。せっかくの新築が「原っぱ」というのは何ともおかしい感じもしますが,A幼稚園がA幼稚園の保育を行うためには,キラキラした「遊園地」を用意するのではなく,あえて「原っぱ」からスタートしなくてはならないのだと思います。

※「原っぱ」と「遊園地」の考え方は,青木淳『原っぱと遊園地』(王国社)から借りました。