※A幼稚園の園だよりコラムの転載です。

唐突ですが、今回は「ゲーミフィケーション」という言葉について考えてみたいと思います。

ゲーミフィケーション[Gamification]は、Game[ゲーム]とfication[〜化する]が組み合わさった造語で、平たく言えば「ゲーム化」ということになります。子どもたちを見ているとよく分かるかと思うのですが、ゲームには人を夢中にさせるコツがふんだんに盛り込まれています(たとえば、ポイントがたまったり、バッジがもらえたり、レベルアップしたり)。それらのコツを分析し、本来はゲームでない様々な活動に応用して、「たのしく面白い、ゲームっぽいものに変えてしまおう」というのが、ゲーミフィケーションの発想です。

近年、典型的な例としてよくあげられるものには、ある回転寿司店のシステムがあります。食べ終わったお皿を返却口に5枚投入すると、ガチャがひけて、景品がもらえる(かも)というものです。こうなると、4枚食べたら5枚目も食べたくなるのが人間の性でしょう。ガチャのドキドキ感に何度もチャレンジしたくもなります。お寿司を食べているのに、なんだかゲームをしているかのようです。「食べる+ゲーミフィケーション」の面白さに魅され、気づいたら想定以上に食べていたということもあるかもしれません。あるいは、お店の側からすると、お客さんがお皿を返却口に入れてくれるため、片付けの効率化にもなっているのかもしれません。

他にも、様々な場面でゲーミフィケーションの発想が取り入れられるようになっています。私たちがつい何度も行ってしまう施設、何度も確認してしまうサイト、本来は嫌いなはずの学習アプリ……それらの裏には、ゲーミフィケーションの発想が取り入れられているかもしれません。その影響力を指して、「もはや、メディアとしてのゲームよりも、現実の社会の方がゲームらしいのでは?」と言うような人もいます。ゲーミフィケーションに覆われる社会の中で、私たちは以前よりも楽しく遊んだり、学んだりできるようになっているようです。

一方で、教育という視座からは、もう一歩踏み込んで考えたい。ゲーミフィケーションによって子どもが楽しく学んだり遊んだりできるということ自体は、基本的には望ましいことだと思います。しかし、子どもたちには、誰かのつくったゲームや誰かの仕掛けたゲーミフィケーションの中でしか遊べないというのではなく、自分でゲームをつくりだせるようになってほしいと思うのです。ここで言う「ゲーム」はもちろん比喩的な意味でのゲームであって、つまりは、誰かを楽しませたり、うまくコミュニケーションをとったり、良い関係を結んだりということを、いつかは「自分のちから」でできるようになってほしいという意味です。

そうした意味で、A幼稚園の子どもたちが自分たちの手で何かをつくりだそうとすることには、この時代においてきわめて大きな価値があるのだと思います。ゲームの受け手であるだけでなく、ゲームのつくり手へ……これからのお部屋での活動の深まりを、そうした観点で分析することもできると思います。