カルシファーが火薬の火を嫌って言う――「やつらには礼儀ってもんがないからね」。同じ火であっても、その振る舞いには礼儀のあるものと、ないものがあるそうだ。最近『ハウル』を見た残響もあってか、とある読書会の途中でこの言葉がふと思い出された。教育にも、「礼儀がない」と言いたくなることがあるのではないか?

礼儀というと、「子どもに礼儀の大切さを教える」といったことがまずは浮かぶだろう。しかし、ここで考えたのは、それとはちょっと違う話である。

たとえば、教室で、「今からコミュニケーション能力を高めるためにレクをします。レクをやってクラスみんなで仲良くなってください。さあ、どうぞ」と言われたら、どうだろう。ねらいは分かる。そのレクにはそうした効果があるのかもしれない。それでも、私としては、なんとなく、ヘンな感じがする。遊び始める前から、自分がどう変わるべきかまで告げられると、これからやろうとする遊びの感じが変わってしまうような気がする。

教師が教育的な意図をもつのは当然だろう。学習者の側も、教師は何かしらねらいをもちうる存在だということは何となく分かっている。しかし、分かっていることと、わざわざ目の前で説明されることは違う。「あなたの能力を高めるために、この楽しさをご用意しました(いかがですか?ニッコリ)」と説明されると、遊ぶ自分を外側から眺めている誰かの視線が、急に気になり始める。

ゲーミフィケーションは、どうだろうか。ゲームの要素を取り入れ、楽しく意欲的に学んだり、働いたりしてもらえるようにする。毎日が楽しいものになったら、それはもちろんよきことだ。けれども、楽しさを促そうとする意図や仕組みが見えすぎると、居心地が悪くなる。楽しんでいる自分の姿まで、誰かにコントロールされているように感じてしまう。こちらが夢中になっている様子を見て、仕掛けた側は「うまくいっている」と微笑むだろうか。「地獄とは他人のことだ」という有名な言葉もあるが、こうしたまなざしの生々しさに、「礼儀がない」という感覚をもってしまうのかもしれない。(念のため言えば、私は学校教育におけるゲーミフィケーションの可能性についてかなり考えてきた人間だとは思う)

それはやり方が悪いんだと言う人もいるかもしれない。が、今は、逆の意味(本来の意味?)での礼儀を重んじ、説明を尽くそうとする時代なのではないか。ただただ夢中に遊んでいたゲームの教育的効果が測定される。細かなルーブリックによって評価基準が示される。学習問題とまとめの整合性が議論される。探究に手順がある。シラバスには学ぶことのすべてが書いてある。学修成果は可視化する必要がある。作品には考察の余地が予め忍ばされる。等々。そうした常識の方を礼儀だという人の方が多いはずである。

小さい子どもを見ていると思うのだが、かれらの生は冗談でも何でもなくきらめきに満ちている。世界がかれらのステージであり、かれらはそれに手を伸ばし、光にも闇にも触れる。その一瞬を掴むことがかれらのすべてである。そのすべてを面白がり、そして、次の探索をまた始める。次の一瞬をまた探す。私には、もはやそれが遊びなのか学びなのか分からない。そこに、「これは探究のはじまりですね」「こういう力が育っていますね」と言葉を貼り付けることはできる。でも、それに何の意味があるのだろう。それは、大人のための言葉である。

子どもは、「探究」をするために手を伸ばしたのだろうか。「こういう力」を上げたくてその場所に行ったのだろうか。私たちの説明の仕方があながち間違っていないとしても、かれらの生きている世界に近づけたとは思えなくなってくる。そこには、何のきらめきもない。

こうした考えにある程度の妥当性があるとしたら、夢中になっている(なろうとしている)人に対して、「ああ、あなたのやろうとしていることには、こういう教育的意義があります」と耳元に寄るのは、それこそ礼儀がない行為ということになるのではなかろうか。言ってしまえば、しゃべりすぎ、である。

巷に目を向ければ、生成AIのつくった動画像や文章でいっぱいである。確かに生成AIは便利た。実際私も使っている。しかし、人は、このような世界にどんなときめきを感じるのだろうか。本当に見たかったものを見られているのだろうか。本当に読みたかったものを読めているのだろうか。ほしいものがすぐに差し出されることと、何かに惹かれ渇望することは、違うのかもしれない。

これは生成AIだけの話でもない。YouTubeを探せば、昔はどうしても分からなかったギターの弾き方が見つかる。高校生の頃、全然コードが分からなくて、あんなに何度も何度も何度も何度も……聴いた曲の弾き方が、一瞬で分かる。便利だ。それにしても、あの繰り返し聴いていた時間は、説明不足のための無駄な時間だったのだろうか。分からないのに誰に言われるでもなく繰り返していた、あのときめきは何だったのだろう。

モリス・バーマンが論じた世界の「脱魔術化」が思い出され、そして「再魔術化」が必要なのではと考えたくなる。私たちは、分かるから、やるのか。ゴールがあるから、そこへ行くのか。意味がないなら、やらないのか。魔法の世界から降りて、すべてを説明できるようにするか。説明を得て、さらに世界が面白くなることもあるだろう。しかし、説明することで、そのときめきまで言い尽くしたつもりにはなりたくない。「脱魔術化」のために説明を尽くすのが、礼儀なのだろうか。それとも、「再魔術化」のために語りうることでも沈黙するのが、礼儀なのだろうか。

火は人類の偉大なる発明である。その火で何を成すか。子どものハートに火をつけるか。それともハウルが戦場におもむいていた時のように、もっと「効率的」な使い方をするのか。「やつらには礼儀ってもんがないからね」――「やつら」とは誰か、「礼儀」とは何か。さらに考えてみたいと思っている所である。