柏市・富勢地区では、小学校3校と中学校1校が合同で「地域の担い手を育む〜コミュニティスクールを活用した生活科・総合的な学習の時間の創造〜」という研究実践に取り組んでおられる。地域を題材とした9年間の探究活動をデザインしようという壮大!なもので、今が2年目。3年目(おそらく、とりあえず、最終年度)となる次年度には、公開の予定もある。私も当初から仲間に入れていただいている。今年も、恒例の夏の合同研修会にてお話をさせていただいた。(教員研修だが、地域の方々があたりまえのように多数参加されているのが、アツイ)
今回は、公開へ向けて研究の「まとめ」をどう考えたらよいか、ということについて私の考えを提案した。日々の実践は続いていく訳だが、公開に来てくれるはじめましての方へ向けて、できればユニークな語り口で、このユニークな実践の特徴をお伝えできたらと思うのだ。たとえば「探究のサイクルを回している」と言う「だけ」では、この壮大さを伝えきれないと思うし(9年間ぐるぐるサイクルを回し続けているという説明で何か意味あることが言えるのか)、地域と連携しているということ自体もそれだけでは珍しいものではない(しかし実際には今回のようにかなりの程度協働でコトが進んでいる)。
私自身、アドバイザー的に関わるなかで、この取り組みにとんでもないエネルギーを感じつつ、「一体どう説明したら?」とぼんやり考え続けてきた。国の方針に「当てはまっている」からよい、流行りの学習モデルが「適用されている」からよい、というだけではない何かよい語り口があるのでは…と。もっと腑に落ちる、しっくりした、何か…。
あるとき「ハッ」と思いついたのが、カリキュラムのかなりの部分はローティの「偶然性」「アイロニー」「連帯」という「言葉」を「借りる」とすとんと整理できるのではないかということ。今回は、次年度へ向けての議論の種になればと思い、そういう仮説をそのまま提示した。(特に)低学年ではまちやひととの偶然の出会いがデザインされているし、(特に)中学年では楽しく過ごしているまちの見直しが活動の核になっているし、(特に)高学年では「私たち/地域」と分けて考えるのではなく「ともに」課題解決にのぞんだり新しいことを興したりしようという挑戦が始まっていく(中学校は今回は省略)。もちろん、「特に」と書いたように、低学年にも「連帯」っぽさはあるし、高学年にも「偶然」っぽさはある。ローティ自身もこれらが「ステップ」だとは決して言っていないはずだが、あまりにも壮大でどこをどう見ればわからないときのメガネ(あるいは補助線)として、こんな風に軽やかに、大雑把に、無責任に言葉を借りてみてはどうかと思ったのだ。とりわけ、6年間(9年間)にわたる子どもの姿を想像するためには、けっこう役立つのではと思うのだが、どうだろう。こんな図みたいに便利ツール化してはだめですか?
図
本職の方からすると、粗くて仕方ないとおこられそうである。でも、実践を見て研修をともにしてきた身からするとあまりにしっくりきてしまったのだ。使い方が粗い分、本来の議論とのズレ・擦れがさらに面白い発想も導いてくれるのではというやんちゃな期待もある。まあ、あまりにダメだったら「出会う」「見直す」「共に」みたいに言い換えてもいい。何にせよ、ここから会話を続けていけば、ローティも許してくれるだろうか。
ローティを頼りにすることで、研究テーマでありながらぼんやりしていた「地域の担い手」なるものの像を語りやすくなる。私たちにとって、これが最大の利点なのだと思う。ローティっぽく言えば、「地域の担い手」とは、地域に詳しい人だけでもなく、住み続ける人だけでもなく、特定のえらい人だけでもなく、①地域での偶然の出会いを楽しむことができ、②でも楽しむだけじゃなく時々よく見つめ直し、③いざという時にはバラバラだった人たちと共になって「私たち」として関わろうとできる人ということになるのではないだろうか。実際、富勢ではこうした子どもを育てようとしており、カリキュラムもそんなふうになっている気がする。初年度から、「研究テーマにしてもいる「地域の担い手」って何ですか?」とみなさんに問いかけていた。実践を見ながら自分でも何だろうなあとずっと思っていて、そして今、さしあたりの答えである。
