※A幼稚園園だよりコラムの転載
近年、保育研究や子育て論では、「体験が大事」「環境が大事」とさかんに言われます。確かにそうなのかもしれませんが、そうした言葉は、ときに「責任」と結びついて、私たち大人を困惑させます。どんな体験がよくて、何がよくないのか。どんな環境が育ちにつながるのか。できるだけパフォーマンスよく、望ましいものを子どもに手渡さなければ。そんな思いが、知らず知らずのうちに私たちを「一つの正しさ」へ向かわせてしまうことがあるように思います。
けれど、子どもの姿を見ていると、大人が想定するような「一つの正しさ」は幻想なのかもしれないと感じます。子どもが見ているものや感じていることは、大人が想定した「一つ」には収まりきらないもののように思えるからです。道は目的地へ行くためだけのものではなく、寄り道するためのものである。棚はしまう場所である前に、登ってみたくなる山になる。本は静かに読むものではなく、並べたり広げたりするものである。大人の「こうあるはず」は、世界のほんの一面にすぎないのかもしれないということを、子どもたちはいつも精一杯表現しているように思えます。
こんなこともあるでしょう。「電車を見に行こう」と出かけた途中で、子どもが虫を見つけてしゃがみこんでしまう。予定は遅れ、いつもは食べないであろうものを急いで昼食とすることもある。大人はバタバタしているけれど、子どもとしては新しい好みに出会うことになるかもしれない。こういった出来事は、計画(必然)にはない「偶然」です。けれど子どもの育ちは、そうした「偶然」と深く結びついているのではないか、と思います。
子どもは、「必然」と「偶然」が入り混じるダンスを生きている。そう考えると、教育とは、一つの正しさへ導くことばかりではなく、そこで偶然を受け入れ、想定外の多様な意味が立ち上がる余白を残す営みなのではないかと思えてきます。しかも、その営みは時間のかかるものでもあるのでしょう。寄り道し、回り道し、ときに立ち止まりながら、ゆっくりかたちづくられていく。大人にも、急いで意味づけしすぎず、「待つ」ことが求められるのかもしれません。
寄り道や回り道は、「一つ」の目的地から外れることではなく、別の景色に出会うことなのかもしれません。保育とは、その景色を子どもとともに味わいながら、時間をかけ、ゆっくり歩いていく営みなのでしょうか。